私は双眼鏡だ。
その気になりさえすればプライバシーなどいくらでも踏みにじってやれる、六十倍ズームの双眼鏡だ。夜釣りを装ってボートを出し、《三光鳥》を内偵する警察の男たちは、すでに三時間も私を相手にしている。しかし、犯罪に関する証憑の確かさはまったく得られず、また、期待に結びつくような変化も何ひとつ起きていない。つまり、今夜賭場が開帳されるような気配はまるでないのだ。
身綺麗にした女将と、しどけない寝巻姿の娼婦が、ビールの入ったジョッキを片手に庭を散策している。屈託のないふたりの笑声がときどき風に運ばれてくる。そしてしばらくすると、三階建ての黒いビルの住人のうちのひとりが、三人のうちでは一番目立つ長身の青年がやってくる。私は町民の前で驕傲に振る舞いたがる要注意人物の横顔を捉え、ぐっと引き寄せる。彼が着ている新調したばかりのからし色のスーツは、まほろ町の夜とうたかた湖の秋によく似合っている。
いずれは審判を受けることになるであろうその青年は、証人として喚問されるかもしれないふたりの女に二言、三言話しかけると、見るからに燃費のわるそうなクルマを駆って帰って行く。入れ替りに、捉え難い深遠な青色のシャツを着た少年が現われる。彼の登場は、ボー卜の上で息を殺している男たちの気勢をそいでしまう。「今夜はこれくらいにするか」とかれらは言って、私をしまいこむ。
(9・30・土)
丸山健二×ガジェット通信
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