私は棘だ。
枯れた花を見下す世一の母親の人差し指の腹を刺して、薔薇としての威厳を保つ、棘だ。来年のために伸び放題になっていた枝を切り詰めて形を整えようとしていた彼女を、私はぐさりと刺した。噴き出した血はすぐにとまり、痛みもそう長くはつづかなかった。だがその代り、彼女の半生の底に沈んでいたろくでもない何かがへどろのようにどっと舞いあがり、彼女を棒立ちにさせた。
彼女が生きた五十数年のあいだに溜りに溜った、黒々としたそれは、夕明かりに透けて見えていた彼女の胸のうちを、いっぺんに濁らせてしまった。春から秋にかけては零細な土地を耕し、冬には町へ出て雑多な品物を売り、そうやって過重な労働に堪えても何もいいことなどなかった実家での日々……、この丘の家に嫁いでからもいいことなど何もなかった日々……相も変らず逆睹し難く、解決の手立てのない、昏迷したままの前途……。
彼女は剪定鋏を振りかざし、激しい憎しみをこめて襲いかかり、私を枝ごとすっぽりと切り落とした。それだけでは気がすまず、長靴を履いた足で何度も踏みつけ、指の血が混じった唾を吐きかけた。するとまもなく彼女の心は半分ほど澄み、ついで狂い咲いた薔薇の一片の花びらがあと半分の濁りを消した。それから彼女は私を踏みつけたまままほろ町を見おろし、夕日とオオルリの声を浴びながら、丘を登って家に帰ってくるわが子を待った。
(10・28・土)
丸山健二×ガジェット通信
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